選手やスタッフにピッチ内外に関わらず様々な質問をしていく本コーナー。今回は12月21日(土)に行われる「南雄太引退試合」の開催を記念した「特別編」(計4回)として、出場が決まっているメンバーとの思い出やウラ話を、南氏本人に語り尽くしてもらいました。第3回は「日本代表編」です。
聞き手=戸塚 啓
いまの自分があるのは西野さんのおかげ
――今回はBLUE LEGENDS(1997、1999年のワールドユース、2000年のシドニー五輪世代のメンバーを中心とした日本代表に関わる選手たち)についてうかがいます。監督は柏レイソルで指導を受けた西野朗さんですね。
「西野さんが1998年にヘッドコーチから監督になり、僕はプロ1年目でした。高卒1年目の選手を、しかもGKを、いきなり使うのは監督からしてかなり勇気がいると思うんです。そういう中で、1年目から使ってもらって。西野さんとの出会いがなかったら、僕のプロキャリアはどうなっていたか……間違いなく言えるのは、いまの自分があるのは西野さんのおかげです」
――いつ、どこで、どの監督と出会うのかは、選手のキャリアを大きく左右しますね。
「BLUE LEGENDSのメンバーは代表経験者ばかりですから、五輪代表や日本代表を指揮した西野さんに、ぜひ監督をやってもらいたかったんです。お忙しい方なので難しいかなと思ったのですが、引き受けてくださってうれしいですね」
――メンバーを見ていくと、偉大なレジェンドがズラリとそろっていますね。
「ナラさん(楢﨑正剛)が僕の引退試合に出てくれることが、いまでもまだ信じられないです。ナラさんとヨシカツさん(川口能活)は、小中高とずっと追いかけてきた存在で、プロになって日本代表の合宿で一緒に練習をした日のことは、いまでもはっきりと覚えています。何かこう、ふわふわとした感じで、めちゃくちゃファン目線で見ていました。『オレ、あの二人と一緒にやっている』みたいな」
――ポジションを争うライバル、という感覚にはなれなかったですか?
「時間が経つ中で少しずつそうなっていきましたが、初めての代表合宿ではそうはなれなかったですね。何しろお二人はズバ抜けた存在で、W杯の正GKをずっと争っていましたし」
憧れのGKの一人、楢﨑
小野と高原、静岡が生んだ最強ホットライン
――1999年のワールドユース準優勝メンバー、いわゆるゴールデンエイジの選手たちも集まっています。
「BLUE LEGENDSのメンバーは、まずゴールデンエイジの同級生(1979年4月2日~1980年4月1日生まれ)を中心に考えた、というのはあります」
――小野伸二さん(清水商業高校)と高原直泰さん(清水東高校)は、南さんが静岡学園高校在学当時からのライバルであり、盟友でもあります。
「全国大会の静岡県予選ではライバルで、県選抜やユース代表では仲間で。そのギャップがすごいというか(苦笑)、対戦相手にするとホントに脅威で、味方になるとこんなに頼もしい選手はいない、という二人でした。同じチームでプレーするときは、『この二人ならなんとかしてくれる』と、いつも思っていました。実際にそうしてきてくれたので。それぐらい信頼できる仲間って、なかなかいないですよね」
――ホットライン、という表現が似合う二人でした。
「そうですねえ、分かり合っている。同じチームではほとんどやっていないけれど、彼らは小学生から知っている。なぜ同じ高校へいかなかったんだろう、って思いましたよ。僕は高校選手権に二度出場できましたが、彼らが同じ高校へいっていたら県予選を勝ち上がれただろうか、といまでも思います」
日本代表でも存在感が際立っていた小野(左)と高原
心を揺さぶる中村憲剛とのエピソード
――ゴールデンエイジではない選手では、中村憲剛さんの名前があります。長くJリーグで活躍したお二人ですから、お互いのことはもちろん知っているのでしょうが、代表やクラブでは重なっていません。
「対戦相手としてはもちろん知っていましたが、おっしゃるとおりほとんど絡んだことはないんです。ただ、2022年にアキレス腱断裂で入院したときに、せっかく時間があるから本を読もうと思って、最初に手に取ったのが憲剛くんの本だったんです」
――彼も、現役引退の前年(2019年11月)に大ケガをしました。
「それです。前十字靭帯損傷の大ケガを負って、そこからどうやって復帰したのかが本に書かれていたんですね。それにものすごく勇気づけられたというか、もう一回サッカーをしたいと強く思うようになったのは、憲剛くんの本を読んだからでもあるんです。それで、『ありがとうございます』って伝えたら、彼からも連絡をくれて。何回かやり取りをする中で、『復帰したときの景色は特別なものがありました。南さんにもその景色をぜひ見てもらいです』と言ってくれたのは、ものすごく僕の中で響きました」
――知られざる縁ですね。そんなことがあったとは……。
「僕がアキレス腱を切ったのは5月で、シーズン中に復帰するのはほぼ不可能でした。クラブとの契約はその年までで、『満了です』と言われたらもうサッカーはできない。けれど、何かをアピールできる状況にはない。これまで自分がやってきたものを見て、契約を延長するかどうかを判断してもらうしかない。いや、新しく契約をしてもらったとしても、自分が思い描くレベルに戻ることができるのか。納得できるパフォーマンスを取り戻せるのか……」
――自問自答を何度となく繰り返していたのですね。
「そういう中で彼の本を読み、話もして、いろいろな刺激を受けて、『自分ももう一回あの景色を見たい』と思うようになったんです」
――お話を聞いているだけで、胸が熱くなってきました。
「すごく影響を受けたので、『ぜひ出てほしいんです』と言ったら、『自分でよければ、ぜひ』と。僕の引退試合の1週間前に彼の引退試合があるので、『自分の試合が終わっても気持ちが切れないように、1週間でなんとか立て直します』と言ってくれました」
柿谷くんは遊び心と芸術性がある
――柿谷曜一朗選手の名前もあります。彼との接点は?
「彼は2024シーズンまで徳島でプレーしていましたけど、徳島の監督の増田功作さんは横浜FCのコーチをやっていたので、仲良くさせてもらっているんですね。で、増田さんが『せっかくだから、曜一朗が出たら面白いんじゃない?』と言ってくれて。柿谷くんとは何度も対戦してきたし、Jリーグアウォーズとかで会えば話したりして、少ないながらも接点があったので打診をしてみました。すると、『僕でよければぜひ』と言ってくれたんです」
柿谷(左)と徳島の増田監督
――天才肌のFWとして知られる柿谷選手ですが、GKの視点ではどのように見ていますか。
「シンジ(小野伸二)に近いところがありますよね。ボールの扱いにものすごく長けているし、なんでそんなトラップができるんだろうって思う。シンジとか、乾(貴士)くんとか、柿谷くんは、ちょっとマネできないレベルというか」
――同じことができない、というレベルですね。
「プロの中でも飛び抜けてサッカーがうまい、という選手たちですよね。そこに遊び心があるというか、芸術性がある。彼のような選手はホントに貴重だし、対戦相手として同じピッチに立ちながら『うまいな』って思う選手です」
メンバーを選ぶのは「結婚式と同じ」
――それにしても、これだけの選手がよく集まりました。
「呼びたい選手は、まだまだたくさんいたんです。横浜FCや大宮に在籍したことがあって、海外でプレーしている選手にも出てもらいたかった。可能性は探ってみたんですが、僕の引退試合の翌日にリーグ戦があったりして。物理的に無理でした。Jリーグでプレーしている選手も、現役を引退して指導者をやっている方も、年末ですから何かと忙しい。そういう中で集まってくれる選手たちには、ホントに感謝しかありません」
――ポジションのバランスを整えるのも大変そうです。
「これはもう、結婚式と同じだなと思いました」
――ああ、なるほど(笑)。この人を呼んだら、この人も呼ばなきゃいけない、とか。
「それだけじゃなく、人数の制限もあります。この選手を呼んだらこの選手も呼びたい、でもポジションのバランスを考えるとこっちの選手のほうがいいのでは、とか。まあホントに、すごく難しかったです。ホントに悩みに悩んだ末の編成というか、絞り込んだ人選です(笑)」
――南さんのご苦労を噛み締めつつ、当日は楽しみたいと思います。
※第4回に続く。
戸塚 啓(とつか けい)
1991年から1998年までサッカー専門誌の編集部に所属し、同年途中よりフリーライターとして活動。2002年から大宮アルディージャのオフィシャルライターを務める。取材規制のあった2011年の北朝鮮戦などを除き、1990年4月から日本代表の国際Aマッチの取材を続けている。