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「横山知伸 氏を偲ぶ会」実施レポート
6月18日(火)、パレスホテル大宮にて、2024年1月に逝去されました横山知伸 氏を偲び、生前ご懇情を賜りました皆さまにご参集いただきまして「偲ぶ会」を執り行いました。

平日夜の開催となりましたが、現役時代にともにプレーした選手たちや指導を受けた選手たち、サッカー関係者や各世代のチームメート、在籍した各チームのファン・サポーターなど、約300名の方にご参列いただきました。司会はスタジアムDJの高森浩二さんに務めていただきました。

開会の辞、故人の紹介、佐野秀彦 代表取締役社長による主催者ご挨拶に続き、友人代表として川崎フロンターレ同期入団の田坂祐介さん、大宮アルディージャでも一緒にプレーした菊地光将さんより、ご挨拶をいただきました。その後は、黙祷を捧げ参列された皆さまより献花を頂戴しました。

また、会場内やロビーには、かつて在籍した各チームのユニフォームや写真パネル等の展示コーナーや、サポーターの方にご協力いただいてバナーやゲートフラッグの装飾などを行い、在りし日を振り返りながら故人を偲びました。

これまで応援していただいた皆さま、「偲ぶ会」に参列いただいた皆さま、に厚く御礼を申し上げますとともに、ここにあらためて、大宮アルディージャに多大なる貢献をしてくださった横山知伸 氏に対し、心からの追悼の意を表します。


故人の紹介
横山知伸さんは、夢追い人でした。

「小さいころからサッカー選手になりたかった」そうです。子どものころから活発で、小学校や中学校では担任の先生に「よく怒られていた」と話していました。

高校は名門の帝京高校へ。「9割ぐらいがスポーツ推薦で入学してくる」というなかで、横山さんは「一般入試での入部」でした。

「全国から集まってくる先輩や同級生を見て、みんなうまいなあと思っていた」と振り返ります。同時に、「親に学費や部費を払ってもらっていたので、負けたくない気持ちがあった」そうです。

3年生になると試合に出られるようになり、インターハイ優勝の一員となりました。「負けず嫌いのチームメートに引っ張られて、自分も3年間頑張ることができました」と嬉しそうに話していました。当時はFWとしてプレーしていたそうです。

高校卒業後は1年間の浪人生活を経て、早稲田大学へ進学します。元日本代表でJリーグの清水エスパルスで活躍した大榎 克己(おおえのき かつみ)さんが率いるチームには、のちにJリーグ入りする選手が揃っていました。同級生には横浜F・マリノスなどに在籍した兵頭 慎剛(ひょうどう しんごう)さん、鹿島アントラーズで長くプレーした山本 修斗(やまもと しゅうと)さん、湘南ベルマーレなどでキャリアを積んだ島村 毅(しまむら つよし)さんらがいました。ポジションはボランチやセンターバックになりました。

「先輩にJリーグへ行く選手がいたので、自分も行きたい気持ちが強くなっていった」そうです。ただ、獲得のオファーはなかなか届かず、4年生時には就職活動をしていました。大手の証券会社などから内定をもらい、並行してサッカーに打ち込み、大学生活最後の大会となるインカレで優勝をつかみました。

ここで、転機が訪れます。川崎フロンターレからオファーが届くのです。横山さんは小学生のときに、父親をがんで亡くしています。自身とお姉さんを育ててくれた母親を「喜ばせたい」という気持ちを、ずっと胸に秘めてきました。内定を辞退してJリーグへ飛び込むことを決意したのも、「母を喜ばせたい気持ちがあったから」とのことでした。

プロ1年目から試合に絡んでいきました。影響や刺激を受けた人を問われると、高畠 勉(たかはた つとむ)さんと答えました。「試合でミスをしたあとの修正のしかた、悪いイメージを払拭して良いプレーにするための考えかた」を学んだそうです。

プロ2年目には結婚しました。「妻は料理を勉強してくれて、食事を管理してくれます」と話していました。プロサッカー選手としての土台が、ピッチの内外で築かれていきました。

プロ4年目にはサッカー人生初の肉離れを経験します。それまでは身体のケアに積極的に取り組んでいなかったのですが、このケガをきっかけに筋トレに励んだりするようになったそうです。

川崎フロンターレでは2008年から2011年まで4シーズン在籍し、2012年からセレッソ大阪の一員となります。

「フロンターレもセレッソも、日本代表に選ばれるような選手がいましたので、すごく高い意識でサッカーをやることができました。セレッソではスタメンで出る機会があまり多くなく、悔しい気持ちが態度に出てしまうこともあったのですが、当時はコーチだった小菊 昭雄(こぎく あきお)監督が『ヨコの気持ちも分かるけど、一生懸命やっていれば見てくれている人はいるよ』と寄り添ってくれた」そうです。

セレッソ大阪で2シーズンを過ごし、2014シーズンから大宮アルディージャの一員となります。加入2年目の2015シーズンは全42試合のうち41試合に出場し、1年でのJ1復帰とJ2優勝に貢献しました。背番号18を背負ったボランチは、チームに不可欠なピースでした。

「プロになって初めてと言っていいぐらい試合に出たシーズンでした。それまで色々な監督のもとで、色々なタイプのチームメートとプレーしてきて、どうやったら自分が生きるのか、周りの選手たちの良さを引き出せるのかが、少しずつ分かってきたタイミングでした」と、のちに振り返りました。

大宮アルディージャには2016年まで3シーズン在籍しました。「個性豊かな選手が多くて、あのチームでサッカーができてすごく楽しかった。最後の2016年はあまり試合に絡めなかったですが、いい雰囲気のなかでトレーニングができていました」と、楽しそうに振り返ったものでした。

プロ入りした当初は、「とりあえず10年できたら」と考えていたそうです。その10年目は2017年、北海道コンサドーレ札幌で迎えました。大宮アルディージャからの期限付き移籍で加入し、センターバックとして守備を支えました。翌2018年には完全移籍し、同年8月からはJ2のロアッソ熊本へ期限付き移籍します。背番号45を背負い、ボランチとセンターバックでピッチに立ちました。

北海道コンサドーレ札幌との契約は2018シーズンで満了となりました。次のクラブを探している年末に、脳腫瘍が見つかりました。すぐに摘出手術をし、翌年9月にはJ2のFC岐阜と契約を結びました。「脳腫瘍が見つかったときは、こんなに早くまたサッカーができるとは思えませんでした。一番近くで支えてくれた家族、友人、退院後に練習環境を与えてくれたみなさん、FC岐阜の関係者の皆さんに、ホントに感謝しています」と話しました。

FC岐阜ではベンチ入りしましたが、試合に出ることはできませんでした。「せっかく獲ってくれたのに、チームに貢献できなくて」と、悔しそうに語りました。FC岐阜との契約が満了し、国内で移籍先を探しましたが、自身が求める環境からのオファーはなく、現役を退くことを決意しました。

翌2020年からは、北海道コンサドーレ札幌のアカデミーでフィジカルコーチを務めます。大宮アルディージャに在籍していた当時から、「試合に出ていない時期のほうが長い選手で、そういうときに色々な人に支えられました。だから監督よりもコーチをやりたいです」と話していました。

大宮アルディージャには2023シーズンに“復帰”しました。同年5月までトップチームのフィジカルコーチを担当し、その後はU18のフィジカルコーチとコーチを兼任で務めました。

フィジカルコーチとしてのやり甲斐を聞かれた横山さんは、「病気になってサッカー関係者の方々に支えてもらい、募金活動もしていただきました。所属したチームのファン・サポーターの皆さんにも、勇気づけていただきました。引退後は感謝の気持ちを伝えたい、サッカー界に少しでも貢献できたら、と考えるようになりました」と答えました。

プロ11年でJ1リーグ通算162試合出場7得点、J2リーグ48試合出場3得点の成績を残しました。サッカーに情熱を燃やし続けた横山さんを、私たちは決して忘れないでしょう。

彼の意思は、私たちの心のなかで生き続けます。

(文=戸塚 啓/大宮アルディージャオフィシャルライター)


横山 知伸  Tomonobu YOKOYAMA
生年月日:1985/3/18
出身地:東京都
選手歴:川崎フロンターレ - セレッソ大阪 - 大宮アルディージャ - 北海道コンサドーレ札幌 - ロアッソ熊本 - FC岐阜
指導歴:北海道コンサドーレ札幌アカデミーフィジカルコーチ - 大宮アルディージャフィジカルコーチ - 大宮アルディージャU18フィジカルコーチ兼U18コーチ


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